08 終わりにいる場所


あたたかいくらやみに、馬といる。頭上には空が広がっている。空と地面との境界がどこなのかわからない。風が頬をなで髪をゆらしている。風と自分の境界がどこなのかわからない。私は静かに拡散している。生と死のどちらにいるのかわからない。わかるのは、親しい存在がそばにいる、ということだ。



いまから死を迎えるという時、どのような意識で向きあうか。その問いが頭に浮かぶようになったのは、病を得て、死へと続く扉が見えるようになってからだ。それほど遠くない未来にやってくる現実として、その時をどう過ごすか。具体的な手がかりのようなものがあるといいと感じていた。

もちろん、その瞬間はふいにやってきて、ただ終わるのかもしれない。あるいは苦しみの中にいてそれどころではないかもしれない。朦朧としてなにも自覚できないかもしれない。ほんとうはその時になってみなければわからないことだ。

にもかかわらず、そう考えるようになったのは、ひとつの体験がきっかけになっている。馬たちの夜の世界に出会う一年ほど前のことだ。

入院して治療を受けているさなか。私は衰弱し、ただ横たわり、息をしているだけで苦しかった。さらに、より過酷だとわかっている次の治療が待っていた。逃れようのない状況だった。

治療の時間がやってきて、気がつくと私は想像の馬の世界にいた。

緑の草が見渡す限り一面に茂っている。風が吹いて草が波打つように光っている。そこで馬は草を食べている。すっかりくつろいで満ち足りている。あくびをしている。飛んだり跳ねたりして遊んでいる。

そんな馬の姿が、目をつぶった私の脳裏にありありと映っていた。吸い込まれるように馬の世界にいる間、私は苦痛の外にいた。微笑んでいたかもしれない。ほどなくその時の治療は終わった。



なるほど、こういう意識の向け方があるのかと思った。このような心の働きについては、きっといろいろな名前がつけられているだろう。なんであれ、私にとって苦しみを和らげるのに効果的な方法だった。

興味深いのは、くつろいでいるのは馬であって私ではないところだ。対象が自分だったらこんなにもすんなり想像の世界へ行けなかっただろう。

私は、呼吸法や瞑想など、意識や身体の状態を自分でコントロールすることが苦手だ。意図するとつっかえる。眠ろうとするとかえって眠れなくなる。ストラグルが起こる。その半面、ある状態をイメージすることは割合すうっと自然にできる。意識がワープするというのか。そういう状態に入っていて、気がつくと呼吸が深くなっている、ということはある。流れの向きがちがう。

馬を脳裏に映し出すことはいくらでもできた。これまでに見た馬の姿やしぐさの記憶が、それはもう無数に、私の心と体に刻まれている。なぜだかわからないけれど、馬という存在は、私にとって自由へつながる入り口になるようだった。

過酷な治療はそれからも続き、私はそのたびに馬の世界を訪れた。そうやって苦痛の海をなんとか泳いだ。馬には返しきれないほどの恩がある。



一通りの治療は終わったが、その先、生きる方にいくのか死ぬ方へ行くのか、わからない状況だった。死ぬ方へ行くのだとしたら待ったなし、これから替えの利かない時間を過ごすことになる。私は死を意識して暮らすようになった。

考えることは山ほどあり、たくさんの感情があふれた。そして、死を迎える時にどのような意識で向きあうか、という問いが、いつも頭の片隅に置かれるようになった。死を悪いもの嫌なものとは考えておらず、恐れを感じるとしたらその過程で起こる苦痛に対してだった。

想像の馬の世界へ行く回路があることはひとつの安らぎではあった。だが、死へ移行する時にも同じようにしたらいいかというと、そうではない気がしていた。なぜかといえば、これは私が光を当てて見た世界だからだ。見ている「私」がいる。行って帰ってくる「私」がいる。馬のおかげでより自由な感覚を得られたけれど、私の意図はどこかに含まれている。

生から死へ向かう時に「私」はいるだろうか。その淵に立つ時、存在の臨界点で起こる変容は、今まで触ってきたものと、まるでちがう質感を持つように思える。それはきっと高みに昇るような感覚ではないと感じていた。奇跡が起こる時のような陶酔を伴う感覚ではない。おそらくごく自然で当たり前のことが起こるのだ。



不思議なもので、そういう視点で世界を眺めて暮らしていると、今まで見ていなかった領域が目の前に立ち現れてくる。出来事が起こってくる。

そうして私の前に、馬といるくらやみの世界が現れた。はじまりは、カディが生と死の淵に立っている時だった。あとから考えてみればそれも不思議なことだ。