07 異種のともだち(3)


馬といるくらやみに、緑色のちいさなふたつの光がぽっと浮かび上がった。あ、あの猫だと思った。白と黒のぶち。ずいぶん前から知っている。これまで幾度も遭遇している。

与那国島には人里離れたところで天然の獲物を捕まえて暮らす、野生化したイエネコがいる。このぶち猫もそうで、行動範囲は広く、馬のいる森から遠く離れた場所で姿を見かけることもあった。いつもひとりでいた。

猫は音をたてない。馬が動けばくらやみにいても音でわかるけれど、猫だとわからない。

ある日くらやみに座っている私のすぐ横を、すうっと動いてゆく小さな物体を感じた。え、と思って見たら、このぶち猫だった。

別の日は激しい雨が降っていた。風も強かった。体は自然に風雨を避けられる場所を探した。馬も私も同じことをした。居心地よくいられる場所を見つけて腰を落ち着け、ふと目をやると、すこし先にぶち猫もいた。猫も同じことをしていた。

カディと猫と私でくらやみにいた。雷鳴と雨音に包まれながら、なにもしないでそこにいた。なんと豊かな時間だったことだろう。



ぶち猫に会ったら、あ、と思う。いたね、と思う。とくべつ近づいたり話しかけたりすることはない。カディのように毎日顔を合わせるわけではないけれど、なんとなくともだちのような気がしている。

ぶち猫は私のことを記憶しているだろうか。くらやみにいるヒトはめったにいないし、会っても逃げないところを見ると、あるいは覚えているのかもしれない。



私という輪郭は、いつも形を変えている。誰とどんなふうに関わるかによって、どんどん形を変えてゆく。私という確かなものがあり、他者がいて、さてどう関わるか、という順序ではないように感じる。

相手が私を認知すると同時に私の輪郭は変わる。私が相手を認知すると同時に相手の輪郭は変わる。そこに生じているのは、個では生じない現象だ。

とりわけくらやみにいる時は、たがいの輪郭が溶けあうような感じがある。



私が馬と向き合う時、ヒト同士の関わりあいでは生まれない現象がそこに生じる。馬の認知のしかたはヒトと違うから、おのずと私はヒトであるだけの私ではなくなる。

馬は、私の体や動きや気配や匂いから私を感じ取っている。その反応が毎瞬返ってくる。

私が感じる私自身はたくさんの矛盾に分断されているけれど、馬が感じる私は分断されていない。馬はまるごとの私を感受している。まっすぐに返されるその感触にはっとする。

馬はヒトの抽象的な思考をあまり理解しないだろう。でも、ヒトが自覚しない微細な信号を馬は感受する。それはかつては機能していたが、今はもうヒトが感知できなくなってしまった回路かもしれない。その反応が返されることで、閉じていた私の感覚が開かれていく。



馬と関わるようになって驚くのは、これまでどれほど自分がヒト中心にこの世界をとらえていたかということだ。

さまざまな場面を馬の側から眺めてみる(つもりになる)と、まったく違う風景が見えてくる。ヒトがごくふつうの常識としてとらえていることが、なんとも奇妙なものに思えてくる。

たとえば、現代の社会ではふつうのこととされている土地を所有するという概念。ひとりのヒトが、あるいは組織が、国が、境界線を引き、ここは自分(たち)のものであるという。

馬にもなわばりの意識はある。自分の空間という意識もある。イキモノのなかには巣を作るものもある。でも、その範囲は常に変化している。環境全体が常に流動している。さまざまなイキモノが重なりながら生きている。

馬が自然の一角を区切り、その領域すべてが自分のものである、と考えるようなことはない。そのような概念が生じるしくみを知覚のなかに持っていない。

うつろう月の光、空を流れる雲、風に揺れる木々の葉、植物の発する匂いなど、動き続ける自然に囲まれながら馬といると、それらすべてがひとつながりになってこの世界があると感じられる。その一部を区切って「所有する」とは、なんと奇妙な発想だろう。

ヒトの知性のありかたは独特だ。多くの概念のおおもとが「ということにする」というプロトコルでなりたっている。それを現実であるかのように認識して行動する。しかし、そのように独特な知性を発達させたヒトも、自然の一部といえばまたそうなのだ。



突飛に聞こえるかもしれないが、人工知能という存在について、私はどこか異種のイキモノのように感じているところがある。だからヒトの能力と同等になる、とか、ヒトを超えるのはいつか、というとらえ方がしっくりこない。

それよりも「新しい自然」が現れる、ととらえたほうが近いのではないか。馬と関わることによって私の輪郭が変わるように、AIと関わることによってまた、自意識の輪郭は変わるのだろうと思っている。

どんなふうになるのか、いまの私には想像がつかないけれども。