06 異種のともだち(2)


くらやみの中を車で走る。誰もいない道。風の渡る音だけが聞こえる。いまこの瞬間カディは森でどんなふうに過ごしているだろう。木々の間を歩いている姿を想像した。笑みが浮かんだ。

目覚めた時からカディのことは何度か想像している。その度に私はすこし笑う。

馬たちが暮らす森に着いた。柵の向こうに黒い影が見えた。カディがひとり待っていた。他の馬たちの影はなかった。カディはいつの時点で森から出て、ここで待とうと思ったのだろう。

車を降りた。歩いていくとブフフフとカディがいった。私はまた笑った。柵を開け、くらやみのなかへ共に足を進めた。



馬の時間の感覚はヒトとちがう。意識のありかたもちがう。カディは私のことをヒトのように想像したりしないだろう。馬といてすばらしいのは、今この瞬間起こっていることへ、常に私をひきもどしてくれることだ。

しかし顔を合わせていない時も、カディと私の間でなにかの了解はなされているように思える。

それは、体と心に刻まれた動的な記憶のようなものかもしれない。カディと私の間で長い月日をかけてすこしずつ生成してきた場所。たがいに自分の領域から一歩ずつ外に出て、手探りで育んできた変わり続ける場所だ。



あるシステムの動作を他のシステムで擬似的に動作させることをエミュレートというそうだ。たとえば、Mac上にWindowsの環境をプログラムで擬似的に作り出して操作するようなことだ。

その言葉を知った時、なんだか自分の生きてきた過程みたいだなと思った。

ヒトの社会でふつうとされている感覚と自分のなかに生じる感覚にかなりの違いがある場合、そもそもヒトの標準OSと自分のOSが違うものだと仮定すると、いろいろなことを説明しやすい。

ヒトの社会で動きがちぐはぐになる者は、ある割合でいるにちがいない。生まれつきのOSでそのまま暮らすことができればいいのだろうが、そうはいかないから、見かけよりたくさんのエネルギーを使い、ヒトの標準OSをエミュレートして生きている。



私の通っていた小学校には特殊学級と呼ばれるクラスがあった。さまざまな理由で特殊とされた子供が、学年を超えてその学級に集められていた。

放課後になると子供が教室を掃除する。特殊学級の掃除は普通学級の高学年が当番で行う決まりだったと思う。

私は特殊学級の掃除当番になることを好んでいた。他にそういう子供はあまりいなかったから、たいてい当番になれた。なぜ好んでいたかというと、学校にいるあいだ、楽に呼吸できる感じがあるのはその時間だけだったからだ。利己的な動機だった。

特殊学級の子供はいろいろな動き方をしていた。活発な子もいたし静かな子もいた。反復運動をする子もいたし型破りな動き方をする子もいた。年齢もいろいろ、身体的な特徴もいろいろ。

みなちがう動きをしている。そのことに私はほっとしていた。掃除をしていただけで深く関わったわけではないから、実際に彼らがどんな気持ちでその場にいたのかはわからない。



特殊学級にひとり、まったく言葉を発しない男の子がいた。あまり動かず表情もほとんど変わらない。誰かと関わっているのを見たことがなかった。彼がどんなことを感じ、考えているのか、外からは見えにくかった。どのような理由でこのクラスにいるのかも私は知らなかった。

ある朝、登校中に彼を見かけた。あ、あの子だ、と思った。彼は誰とも関わりたくないのだろうと受け取っていたから、そのまま通り過ぎるつもりだった。その時、彼がほんのかすかに顔をあげた。そして私にちいさくうなずいた。

うわーと思った。私もちいさくうなずき返した。視線は直接合わさなかった。

たったそれだけのことだけど、子供時代の外的な記憶がすくない私にとって強い印象を残す出来事となった。

あの時たがいの間で、なにか、ささやかな了解がなされた気がした。ヒトの言葉は使わなかった。その感覚は、いま馬とコンタクトする時の感覚につながっているような気がする。



馬にもさまざまな個性がある。群れの動物ではあるけれど、みな同じ動き方をするわけではない。ほかの馬となかよく同期して動く馬もいるし、ちがう動き方をする馬もいる。

カディは後者だ。群れの他の馬たちとは一緒に草を食べたり順番を待って水を飲んだりできるぐらいの関係は保ちつつ、ひとりで行動することも多い。

カディがそういう馬だと知って選んだのではない。たまたま目の前に現れたのがカディだった。カディにとっては、たまたま目の前に現れたのが私だ。巡りあわせというのは不思議なものだ。

社会性を持った生き物は同質性を求める動きがある。でも中には異質なものを求める個体が混じっている。そのように自然はできているような気がする。そしてあらゆる生き物は、どこかで常に異種と接点を持ちながら暮らしている。