04 じっとしている


くらやみで馬は自由に動く。私はたいていじっとしている。草の上にすわったり寝転んだりしている。

与那国島にはハブがいない。イノシシや鹿などのおおきな野生動物もいない。この島で遭遇する家畜以外の生き物は、野生化したイエネコ、ネズミ、コウモリ、モグラ、亀、トカゲ、ヤモリ、カエル、ヤシガニ、カニ、そしてさまざまな種類の鳥と虫。唯一ぎょっとするのはヨナグニシュウダという大蛇だけれど、この蛇には毒がない。遭遇したら去るのを静かに待てばいい。

この島の生き物はヒトを襲わない。そうでなければ何も考えずにうかうかと、くらやみのなか草むらに入っていけなかっただろう。

もちろん状況や接し方によってどんな生き物も危険になりうる。馬だって凶暴になることがある。ヒトがそうであるように。

私がくつろいでいられるのは、くらやみを自由に動き回るカディという私のよく知る存在が、この世界とのつなぎ役になってくれているからだ。

すこしだけやっかいなのは、蚊、ブユ、蟻などの虫。暗い時間にはあまり出てこないが、それでも夏の間は草の上にいると刺されやすい。

風がびゅうびゅう吹きすさぶ冬は虫がいなくて快適だ。カディが眠りはじめたら、そうっととなりにいって私も草の上に体を横たえる。背中に大地を感じながら流れ星や動く雲を眺める。いつの間にか馬の呼吸に自分の呼吸が合っている。じっとしたまま動く世界を感じる。

ごくたまに歩く。よく見えないから、そろそろと足で地面を探りながらゆっくりと体を運ぶ。地面はどこもかしこもでこぼこしている。石があったり、草が生えていたり、木の根があったりする。足裏でそれらを感じながら重心を移動していく。

くらやみにいる時は、光がある時よりも、体と大地のつながりが濃密になるような気がする。



こんなふうに私がくらやみの世界になじむのは、自分のエネルギーの少なさが関係しているのかもしれない。

数年前に大病をして以来、私の生き物としてのエネルギーはがくんと減った。今は馬のそばでじっとしているのがとても自然なことに感じる。心地よくて、いつまででもこうしていられると思う。

もしも生き物としてのエネルギーが満ちている時に来ていたら違う反応だった、と想像できる。いっときくらやみの静かな時間を楽しんだとしても、きっと長くは続かない。やがて動きだしたくなっただろう。なにかをしたくなっただろう。

周波数によって聞こえる音や見える色が変わるように、自分の状態によって感受する世界は違ってくる。

生き物としてのエネルギーが少なくなって、私のヒトとしての輪郭が薄れた。だからこの場所に来ることができたのかもしれない。そしてくらやみにすんなり溶け込むことができたのかもしれない。

静けさと豊かさをあわせ持つこのくらやみは、生と死の中間ぐらい、あるいはそれらが重ね合わさった場所のように感じる。



エネルギーがあった頃はよく旅をした。移動を好み日常でもよく歩いた。たくさん動くことができなくなって世界が閉じたかというとそんなことはない。また別の世界がひらいた。

くらやみに馬といる時には、こんこんと湧き出る水をごくごくと飲んでいるような感覚がある。水は尽きることなく湧いてくる。その水を飲むことによって私もその循環の一部となる。

そこに心地よさはあるが高揚感はない。あるのは静けさだ。だからこの感覚をたよりにしてよいと感じる。高みにのぼっていくのではなく、ほどかれていく感じ。

私を縛るたくさんのものから解放されたような気持ちになる。



子供の頃から、ふと気がつくと目に留まった誰かに同化して、そちら側から世界を眺めているような心持ちになることがあった。

誰に対してもそうなるわけではない。なにかのタイミングで周波数が合った時にそれが起こる。本を読んだり映画を観ている時に起こることもある。共感とは違う、憑依とも違う、ただそちら側から世界を見てしまう感じ。実際にはそのような空想をしているのだろうが、意図してではなく自動的にそれは起こる。

ヒトの社会に目を向けた時、この作用は混乱と苦しみをもたらすことが多かった。だからふだんはそれがあまり起こらないよう閉じている感覚がある。

馬といるくらやみでは、この作用もあるがままにほどかれる。思う存分馬に同化して、その視線でこの世界を眺めることができる。馬がなににも束縛されず、自由に、馬らしくあればあるほど私も解き放たれる。どれほど馬に同化しても苦しみの感覚は生じない。そこには喜びがあるだけだ。



くらやみで私はじっとしている。

体は動いてないけれど知覚する世界は広々としている。

夜明けが来ると私は自分の輪郭のなかに収まる。少ないエネルギーで、どうにかこうにかヒトの暮らしを営みだす。