03 耳をひらく


馬といるくらやみはとても静かだ。静かだけれども音はある。自然の音が満ちている。

音の中心には風がある。与那国島で風が止むことはめったにない。風がいつでも鳴っている。

その風が、海の音を運んでくる。馬のいる森はすこし内陸にあるから、聞こえてくるのは波の音というよりも「ごぉぉぉ」という海鳴りだ。ある時は西から、別の時には南から海の音が聞こえてくる。方角が変わるのは風向きによるものだ。

雨が降れば雨音に包まれる。雲の流れが早い時は、向こうから雨が近づいてくるのが音でわかる。雨つぶが森の葉を打つ「ざざざざ」という音がだんだん近づいてくる。

雨が止むと、虫や蛙やヤモリの声がくらやみを満たす。

私は馬の音を聞く。風向きにもよるけれど、注意深く耳を澄ませば馬が遠くにいてもその音が聞こえる。歩いたり草を食んだりしている音。ごくまれに鳴き声。おならやおしっこ。くらやみが濃くてはっきりした姿が見えなくても、音で馬がいることがわかる。

カディが森の奥にいて姿が見えない時には静かに待っている。そのうちに森の中を移動するちいさな音が聞こえてくる。いま動いてこちらに来ている、ということがわかる。葉っぱが揺れてかさかさいう。その音には特徴がある。風が葉を揺らす音とはちがう質。わかってしまえばとても「馬的」といっていい音だ。

くらやみのなかを草を食む音をたよりにして、今度は私がカディにゆっくりと近づいてみる。草を食む音にはリズムがあり、その音で馬の状態がわかる。なにか注意を引くことがあれば馬は草を食むのやめる。

カディはとぎれることなく草を食み続けていた。私がさわれるほど近づいてもそのリズムは変わらなかった。おそらく近づいてくるのが私だとずいぶん前からわかっていたはずだ。私がたてる音にはなんらかの特徴があり、カディはそれを知っている。

カディの草を食む音のリズム、私がゆっくりと近づいていくリズム、そのいずれも、ここでは「言葉」の役割を果たしている。相手が親和的であるのかそうでないのか、距離や速度はどのくらいが適当か、リズムの変化をたがいに確かめながら聞いている。その加減によって近づくのをやめ離れていくときもある。



私の聴覚にはすこしいびつなところがあって、ヒトの世界では「聞くこと」に困難を感じる場面がある。

ひとつはいわゆる感覚過敏で、おおきな音やかん高い音が苦手、寝ている時にちいさな物音で目を覚ましてしまう。ヒトの世界にある音は、たいてい私には強すぎる。ヒトがたくさん集まるところには音が氾濫しているから、必要がなければ近づかない。街中を移動する時はイヤフォンで耳を守り、寝る時には耳栓をする。

もうひとつは、ヒトの言葉を音声のみで聞いた時に、意味を理解しにくいということだ。音としては聞こえているのだが、それを意味として理解するにはすこし努力が必要になる。

たとえばラジオで誰かが話している内容を理解しようとすると、ほかのことをいっさいやめて意識を集中しなくてはならない。気楽には聞けない。音楽を聴くのは好きだが、歌詞を聞き取ろうとすると同様のことが起こる。朗読を聞くのも苦手だ。もちろん電話も。

ふだんの生活では視覚で情報を補うことができるのでひどく困ることはない。相手の様子が見えていれば会話を聞き取ることはできる。(言葉の裏にある真意を受け取っているかはまた別の話だ。)

知覚の情報処理ということでいえば、文字を読むのは速いほうだと思う。幼い頃から本をよく読んだ。文字の先に広がる概念の世界がいちばん自由な遊び場だった。

ものごとを認知する回路として、私の場合は視覚がひときわ強いのだろう。でも、くらやみのなかではその回路をあまり使えない。おかげでこれまでとはちがう感覚世界がひらいていく。

聞く音すべてが心地よい、ということがどれほど自分をくつろがせるか、くらやみに馬といることが習慣になるまで知らなかった。ふだんは聞くことに不快があって無意識に耳を閉じていた。

不思議なことに私の聴覚のいびつさは、馬を相手にしている限りにおいてはいびつでなくなる。馬がたてるかすかな音を私は聞くことができる。そしてその音の意味を、なにかの変換を通さずにすんなり受け取っているような気がする。なんということだろう。



ここでは聴覚に「光を当てて」みたが、世界を感知する回路には膨大なバリエーションがある。そのすべてに独自の豊かな感覚世界があるはずだ。

ヒトの世界で「健常」と呼ばれる範囲は、ヒトという生物の中央値あたりを指しているにすぎないのではないだろうか。中央からはずれたところにも、もちろん豊かな感覚世界はある。ヒトの領域の外にも。

ヒトとしてははしっこにいるほうが、別の感覚世界を生きる異種と関わり合う可能性は高まるような気がしている。