02 くらやみの景色


夜明け前の時間を馬と過ごすようになってすぐに気がついたのは、月が空にある時、馬たちの世界は驚くほどあかるいということだった。地面には馬たちの月影がくっきりと刻まれる。どの方角に月があるかすぐわかった。日ごと月が移動していくのを感じた。

空を雲が覆っていても、その上に月があるならば、ぼんやりとしたあかるさがあった。月齢によって月が糸みたいに細くなってもまだ光は届く。

月の光をこんなにあかるく感じるのは、そうでない夜がやってくるからだ。

新月から十三夜月の頃まで、夜明け前の空に月はない。このとき地表は段違いのくらさとなる。そのくらやみの中を馬たちは生きていた。馬たちの目に、このくらやみはどんなふうに映っているんだろう、と思った。

日を重ねるうちに私にもわかってきたことがある。それは、くらやみが漆黒ではないこと、くらやみでしか見えないほのかな光があることだった。

車のライトを消した瞬間は、やはりどきりとするほど闇は濃かった。なにも見えなくなる。でも光がなくなってしばらくすると、くらやみにぼんやりと濃淡が現れてくる。その濃淡が徐々に像を結びだし、やがて、これは馬、あれは木、と認識できるようになる。(このことを暗順応と呼ぶそうだ。)

物の境界はすこしぼやけていて、にじんだ墨絵を見ているようだ。その中を馬が動いていくのが見える。ぼやけていても、それがカディだということがわかる。

視覚だけで認識しているのではなく、聴覚や嗅覚や触覚がいっせいに敏感になり、すべてが混じりあいながら、ぜんたいで世界を感知しているのだろう。馬たちの見え方にすこし近づいたのかもしれないと思った。

私は両眼の視力が0.1ほどで、ふだんは眼鏡をかけている。でもくらやみのなかでは眼鏡をはずしてもなんら問題を感じなかった。輪郭のぼけがほんのすこし強くなるくらいだ。どうということはなかった。ひとつ束縛から解放された気持ちになった。



ここでなにか必要があって懐中電灯をつけたとする。光に照らされた場所は、色や形がはっきりわかるようになる。そのかわりに、それまで見えていたくらやみの濃淡やほのかな光はもう感知できない。光の外側は再び黒々とした闇に変わる。

もといた日常の世界の見え方にもどったということだ。でもくらやみの景色を見たあとでは、あかるさによって見えなくなるものがあるとわかっている。光が世界を分けてしまった。



このことによく似た感触を、ヒトの言葉を使う時に感じることがある。

馬といるくらやみの世界では、ひとつひとつの要素が単体で存在していない。あらゆるものが入り混じっている。要素の境界は曖昧でぼんやりしている。これがこうだからこうなる、という因果関係では説明できない。すべてつながりながら起こるように起こっている。

馬と私はヒトの言葉を使わないが、それでもたしかにやりとりがある。意志の疎通みたいな強いコミュニケーションではなく、もっと微弱な、確認のやりとりのようなものがつねに起こっている。そのやりとりは馬と私の間だけでなく、そのほかのいろいろなものともつながっている。

さて、そういうくらやみの世界をヒトの言葉を使って誰かに伝えようと試みたとする。でも、言葉にしたとたん、なにかがぽかっと抜け落ちて、これが私の言いたかったことだっけ…と落ち着かない気持ちになる。ひとつの事象をくっきりさせると、ぜんたいが消えてしまうような気がする。

もちろん、そんなことを思うのはなにも私が初めてではなく、たくさんのヒトが、アートや音楽や詩歌や物語や、きっとそれ以外にもいろいろな方法で、言葉にならないものを表現しようと試みてきたにちがいない。

こういう言い方もできるだろうか。くらやみに馬といる時、わたしの中では「ヒトの言葉を使う領域」以外の部分がおおきくなる。でも文章を書こうとする時は、頭の中でヒトの言葉を使って考える。それは、くらやみに慣れたあと懐中電灯をつけた時の感じにとても似ている。ひとつの言葉を選ぶことによって、それまで感知していたくらやみの濃淡やほのかな光が失われてしまう。

だから、いまこうやって文章を書いていることは、それ自体が矛盾する行為なのだと思う。それならばなぜ、ということになるけれど、どうにも簡単に言葉では表せない。ヒトとそうでないものの中間を、あっちへ行ったりこっちへ行ったり、うろうろとさまよっている。



私は夢想するのだが、すこし先の未来に、ヒトの言葉を使わないで他者と感覚をやりとりする、これまでにない方法が生まれるのではないだろうか。ヒトの言葉はずいぶん便利なものだけれど、やはりそれなりの特質があり、そのことによって触ることのできない領域を同時に生み出しているように思える。

馬といると、ついそんなことを考えてしまう。